松本「日本国民全部が僕の笑いを受け入れるようになったら、それはやっぱり変だ」

松本人志の著書『哲学』より引用

 

 僕の笑いは、ちょっと先に行きすぎているところがあるかもしれない。

 僕の笑いの本質は、前にも書いたけど、想像力に訴える笑いだ。聞いてから、それをいっぺん頭の中に描いてはじめて笑えるという性質のものが多い。

 だから頭の中で絵を描けない人にとって、僕はおもしろくない芸人ということになる。それはもうしょうがないことだと、自分自身でも思ってる。

 そうはいっても僕の場合コンビだから、ちょっとわかりにくいところがあっても、浜田が補助してくれる。

 浜田のツッコミで、ようやくそのおもしろさが客に伝わるという部分があると思う。

「はあっ? お前、アタマ沸いてんとちゃうか?」

 みたいな浜田のツッコミで。

 僕の話を聞いて、すぐにおもしろさがわかった客も、「なんやようわけのわからんこといってるなあ」という客も、そのツッコミで同じように安心して笑える。

 いってみれば、浜田は僕の笑いの通訳みたいな役も果たしてくれているのだ。

 もしも浜田がいなくて、僕一人だったらもっとマニアックな笑いになっただろうか?

 僕はそれをマニアックとはいってほしくないのだが、僕のそういう笑いがバンバン受けるようになったら、それはそれで「大丈夫なんか」っていうのは確かにある。

 日本国民全部が僕の笑いを受け入れるようになったら、それはやっぱり変だ。

 変だとは思うけど、でもみんなにわかってもらいたい気持ちは抑えきれないほどあって、それはもう自分の中で、葛藤も矛盾もしてる部分なのだ。

 ひとつだけいえるのは、もし仮に僕が一人でやるようになったら、僕の笑いの形態も変わっていくだろうということだ。

 まあ、僕と浜田が別れるということは、当分ありえないだろうが。

 

 昔の話だけど、一時期、浜田のツッコミが弱いといわれていたことがあった。

 でも、ツッコミというのは、そもそもそういう宿命なのだ。

 ボケというのは持って生まれたもので、才能がないとできないものだ。

 ところが、ツッコミは生まれつきという性質のものではない。ツッコミは努力すればなんとかなる。逆にいえば、最初からツッコミのうまい奴はいない。

 ツッコミは鍛錬なのだ。

 そういうわけだから、スタートの時点では、どうしてもボケの方が評価される。最初の頃、ボケに対してツッコミがまだまだやなというのは、これはしょうがない。ツッコミは場数を踏んでどんどんボケに追いついていくものなのだ。

 だから浜田はかなり努力したと思う。

 あいつは一時期すごいときがあった。大阪から東京に出てくる頃とか、かなり気合いが入っていたから、ツッコミもものすごかった。

 長いつきあいだから、あいつのツッコミでだいたいそのときのあいつの感情はわかってしまう。

 ちょっと緊張してるなというとき、あいつのツッコミは痛いのだ。「あっ、こいつ今日はだいぶ力入っとんなあ」ということが、あの頃は何度かあった。

 

松本人志他『哲学』幻冬舎2002年、197200頁。

松本「浜田には成功してほしいと思うし、失敗してほしいとも思う」

松本人志の著書『哲学』より引用

 

 昔、記者会見で浜田が、「松本は俺の金づるや」といったことがある。その発言は、なかなかの名言だと思う。

 それでいいと思うし、いまさらきれいごとをいうような関係でもないし。

 あいつが何かで失敗したときは、僕も残念だけど、ざまあみろという気持ちもあるわけで。それは絶対にそういうものだから。

 浜田には成功してほしいと思うし、失敗してほしいとも思うし。

 それが正直な気持ちなのだ。

 

 浜田とプライベートで遊ぶことは、今では全然ない。

 あいつといっしょに遊ばなくなったのは、大阪で売れ出した頃だろうか。

 今ではおたがいに、電話番号さえも知らない。浜田の家にも行ったことはない。

 そんなことをいうとみんなびっくりするけど、本当なのだ。

 僕のマネージャーですら、あいつの電話番号を知らないと思う。

 漫才のコンビは仲が悪いとよくいわれるけれど、僕らの場合はちょっと違う。

 仲が悪いわけではなくて、おたがいに知りすぎているからなのだ。なにせあいつと知り合ったのは、小学生の頃で、そっからこっちずーっと一緒なのである。

 たしか初デートですらも、一緒だったように思う。

 僕と僕の彼女とあいつとその相手の四人で、いわゆるダブルデートをしたのだ。

 そんなわけで、なんていうか、おたがいの恥部まで知り尽くしているというか、何を考えているかまでよーくわかってしまう。

 考えてみれば、家族よりも長くいるわけだからそれも仕方がないのだ。

 家族以上におたがいを理解している二人が、電話番号も知らないなんておかしいという人もいるかもしれない。

 大きなお世話だ。

 いや、まじめな話、結局、しんどいのだと思う。

 父親でも母親でも兄弟でもいいが、そこに自分のことを知りすぎている人間がいたら、友達や恋人とは喋りにくいものだ。

 友達が家に遊びに来て、部屋で話していたら、母親がやって来たとする。

 そしたら今までしてた話が急にできなくなってしまうみたいな、早う向こう行ってくれ、みたいな。そういう経験は誰にだってあると思う。

 浜田は僕にとってそういう存在なのだ。

 プライベートで僕が、誰でもいいが、たとえば山崎邦正と喋っているとする。

 そこに浜田がいるだけで、もうなんか喋りにくいのだ。

 浜田は昔っから僕のことを何もかも知っているわけだから、別に何をいうわけじゃなくても、『ふーん。松本ってそんなんやったっけ。ふーん』みたいな感じで話聞いてるに決まってるから。

 やっぱりすごく恥ずかしいというか、ものすごく居心地がわるい。

 それは、浜田も同じことなわけで。

 というより、今ふと思いついたけど、浜田の方が僕よりそういう意識は強いんじゃないだろうか。いや、もう、強いに決まってる。

 そりゃ浜田には浜田の言い分があるだろうけど、僕は基本的に昔とあんまり変わってないから。そして、浜田はずいぶん変わったから。

 最近の友達とどんな顔して喋ってるのかわからないけど、そこに昔のあいつを知ってる僕がいたら、ものすごくやりにくいに決まっている。

 浜田とは大阪で売れ始めた頃からあんまり遊ばなくなったといったけど、それは僕の方からというより、あいつの方から僕を避け始めたっていうのが大きいんじゃないだろうか。

 かっこつけたくても、僕の前ではかっこつけられないのだ。

 まあ、それはおたがい様なのだが。

 

松本人志他『哲学』幻冬舎2002年、130133頁。